雑記と落書き

背中の痛み、謎の頭痛、首の痛み、やたらと固まっている顎周辺の全ての筋肉、不定期に訪れる上顎から上の筋肉がモゾモゾ動いて鼻の粘膜が膨らんだりめちゃくちゃ閉じてたりしているここ一年。

職場の帰りに寄れる歯医者を見つけ、親知らず抜いてマウスピース作ってもらって、ちょっとだけマシになってきたような気がします。

通院始めた直後はよく……なってるか?という感じですし、正直今もこれが歯科受診の手柄かどうかは怪しいところだなと思っていますが、なんにせよ前よりはマシになっている気がする。

歯科とは別に、ストレートネックを気にしすぎて首をやや後ろに倒す癖がついてたんですが、試しに前側に頭を寄せて背中だけ後ろに寄せてみたらかなり首周りの痛みがおさまりました。

ストレートネック、色々見てて思ったんですけど、「他の腕やら肩やらの筋肉が偏ってしまった結果首がまっすぐになってしまう、そこから神経なりなんなりで痛みが出てしまう」という風に理解したんですけど、じゃあそれ「低めの枕を使う」とかの対症療法を、真っ先に出してきたりするの、欺瞞じゃないです?

首が病気のシンボルとして目に見えるというだけで、首が悪いから首が痛んだのではなく、他の筋肉が悪いから首が痛んでるわけですよね?

さて、首周りの体調が少し改善されたことで若干情緒が戻ってきた感じがします。具体的に言うと好きな音楽を聞いてる時にちゃんと鳥肌が立つようになった。

鳥肌が立つと言っても文字通りの肌の話ではなく、「首元がゾワっとする感覚」がちゃんと情動と紐づくようになった、というのが正確なんですが。

小中学生の頃とか合唱コンクールで他の学校の発表とか見てた時に、そこまですごいものに出会ったとかは思わないんですが、曲によってこうゾクっとした感覚を覚えることがあり、なんとなく自分はこういうものにも感動できるんだ、という嬉しさがありました。

……いやまあ神経的な敏感さがあるってだけだと思うんですけど。耳と首の感度がイイという話にするよりかは「今自分は感動したんだ」みたいな感覚があると作品見るにしても入れ込み方がちょっと違いますからね。

背中の痛みは首が安定してればあんまりないので、あとは顎から上の筋肉がどうにかなればってとこなんですが、これに関しては1日たりとも楽になった日がない。上顎が下に下がりすぎて鼻水が一生鼻から出ていかないような感覚があるし、それの他に右目の動きが死ぬほど悪い。

左目は大丈夫なんですが、右目側の筋肉の動きが結構悪く、顎周りの筋肉も大体右側が痛むので、眼精疲労的なのが影響出てるような気はします。

とはいえ今まで目を休めるためにやってきた散歩に行ってもあんまり効果ないし、なんなら一時期無気力でずっと寝てた時は目を使わないように寝てた所あるのに痛みはむしろひどくなっていた。

ただ、たまに紙の本読んでるとちょっとマシになる気配があったんですね。

今日は徒歩で行くには若干遠い図書館に行ってきました。行ったの自体はただの気まぐれと暇つぶしだったんですが、図書館でしか手に取らないであろう大判の本を眺めてる時に、なんとなく目が楽になったように感じました。

そもそも近頃はしょっちゅう家の環境が終わったことになるのに紙の本なんていう数が多くて分厚くて重いもん家に置いてられっかということで紙媒体はもうほとんど処分していて、読みたくなった時はiPadのkindleで済ませています。なんですけど、その時には感じない感覚でした。

読んでた本は大判とはいえ図録入りの二段組の本で、文字密度自体はそんなではないものの、その時は4行くらい同時に読んでいました。

読んでいたって言っても、日本語だから音読みはわかるし書いてあることの単語ごとの意味もわかる。でも別にこの本読み終えた後に内容の話されても何一つ出てこない。こういう本の読み方、昔は頻繁にしてたような気がするんですが、電子書籍だとなぜかはわからないけどあんまりしていない気がする。

この読み方、速読のやり方なんですよね、多分。それこそ高校生の頃くらいにコンビニの端っこにあった、速読術を身につけるには〜なんて内容の本を読んだ覚えがありますけど、これが速読ならわざわざ身につけるようなもんじゃないな。

本を読むこと自体は、長い時間活字と向き合って読み終わってあー楽しかった、ってやるのが好きだったはずなんですが、同時にこれが「速読」という学習の身にならない単なるリラックス行為だったんじゃないか?という気持ちに今なっています。

軽く読めるキャラクターもの、よく読んでも読まなくても人が死んだらいなくなり、そこから再登場することはない。作中用語の意味を忘れても、話の中の文脈を見ればそれが人名なのかアイテム名なのか場所・建物、組織の名称なのかっていうのは文脈で判断できてしまうから、ボケーっとして読んでても満足感があります。

一方で、研究データまで詳細に乗っかってる生物学の本とかを同じ時期に「読んだだけで」理解しようとするの、びっくりするほどダメな時がありました。文中の英語混じりの専門用語とか全く覚えられなくて、何が言いたいのかを目で追って確認しようとしていましたけどダメでした。

今となっては、そもそもわからない単語を書き出すとかいちちネットで単語を調べてみるとか読み込みのための選択肢がいくつかあるよなとも思えるんですが、目で見て「本側の言いたいことを考える」→次のページにその「本側が言いたいこと」を覚えたまま次の話題を読む、みたいなことをできもしないくせにやろうとしていたなと。

だから学習をしようと思って本を読むなら分からなかった言葉リストを作るなりして、一度学習した概念の一個一個が主語になっても目的語になっても文意を理解できるようにしなくちゃいけなかったんだろうな、という反省があります。

それはそれとして。それはそれとして。

……別にその「化学的でしっかりした文章を読むにはクソの役にも立たない、ひどくぼんやりした読書」も俺は好きだったんですよね。

っていうかそっちの方が俺にとっては読書だったし、俺の好きな読書って内訳ほとんどそれだった気がする。

例えば、小説読む時に「頭の中に声が聞こえるように感じるタイプ」とか「頭の中に映像が流れるタイプ」みたいな話、たまにSNSで流れて来ませんか?

強いていうなら自分は映像の方に近いかなあとは思うんですけど、本当に自分の感覚に一番沿った表現をするなら、「なんとなく描いてある意図が分かる図形(文字のこと)がいっぱい並んでるのをぼんやりと眺め、ぼんやりと言いたいことを察して、ぼんやりしてる途中で気が散った時に図形から察せられる情景を映像で思い浮かべている」が正確な気がします。

全部これってわけじゃないんですけど、「気軽な読書」って基本これがほとんどな気がする。

えー、ここまで「紙の本見てたら楽な気がした」「紙の本見てる時の読み方が速読だと思った」「速読は知識を得る目的でにやるには方法的にクソ」「でもそのクソ読書の方が好き」というお話をしていますが。

「紙の本見てたら楽な気がした」のところまで戻しまして。

目が楽になったというのは、速読ゆえに4行くらいのひと纏まりの文字をぼんやり見ているがゆえに、目のピントを一文字一文字丁寧に合わせてないってことだと思うんですよね。

じゃあ普段の電子書籍なりアプリの文字とかどうなのかっていうと。

iPadなりiPhoneなりで文字を読むとき、操作すれば文字自体は大きくできます。とはいえ、文字を大きくしても画面の大きさは変わりません。

結果一画面に配置される文字の数は少なくなり、単語一つ一つをじっくり見れるようになります。読書の質としてはそっちの方がいいかもしれません。細かく見れるので、見ます。一文字ずつ。

……なんか結果として、目のピントが一文字ずつ、やたら細かく注視するようになり、目の筋肉がすごく緊張する羽目になっているのでは?

「クソぼんやり読書」は注視する面積を広めにとって、意味がなんとなく取れたら次の行へ、という形式なので、小さい文字一つ一つを注視しませんし、その中に誤字があっても多分気づきません。そして大きな本で読書する場合、本自体の位置は変えないまま眼球の視線を動かし、次の行を見ます。

これがiPadとかの端末だと、まず画面が小さいので、画面内の範囲で眼球を動かしたところで対して目は動きません。文字が小さければ読みやすさを考えて自分でピンチズームしちゃったりします。まあ目を細めるよりかはまだいいと思うんですけど、体感として、眼精疲労は目の使いすぎというよりは、目が同じ場所しか見ずに視線を動かしていない時に起こるものな感じがしていて。

スマホゲーの立ち絵に下にテキストウインドウ出る形式とか、もしゲームの要素がテキストしかなかったとしたら、固定された位置にある2行ぽっちの文字スペースをタップして更新し続けるわけですから、めちゃくちゃ目疲れるんじゃないでしょうか。

こないだまでFGOを最新章まで進めてたんですけど、1番の敵は眼精疲労でしたしね。あのゲームの文章表現ってテキストの形式にかなり振り回されてそう。

そんな感じで、「読書することで目を休める」みたいなことを今考えています。

筋肉を使いすぎての疲労って色々あると思うんですけど、骨の疲労骨折とは違って、「耐久力の限界を無視して使いまくったら断裂しました」みたいなことってそうそうないんじゃないでしょうか?

運動してない人が急に重いものを運んで筋肉痛とかはありますけど、筋肉痛だったら痛いだけでちょっとしたら治りますしね。筋肉ちぎれるくらい重いものを持つとかは別の話だし。「使い続けすぎて終わってしまった」の話をしています。

特にここ最近の不調を振り返り、筋肉由来の不調は大体同じ姿勢・同じ場所に力を入れる行動を取り続けるとあちこちを歪ませながらハチャメチャに固まる、という性質のものだと思い、動かすことで癒すことができればいいなと思った次第です。

図書館から帰り道、本以外のところで「目のピントを広めに合わせてみたらどうなるんだろう?」と思いやってみたんですが、これがかなりいい。

SNSとかでたまに「世界が2Dになる時があって不快」みたいなことを度々言ってるんですが、その状態って目のピント機能に何かしら不調を感じている時です。絵なり漫画なりを二次元バンザイみたいに崇めるオタクのノリって今受け継がれてるんでしょうかね、俺はリアル人間のことあんまり好きじゃないけど三次元の散歩道は二次元のエモエモ背景美術よりも好きです。

目のピントを動かした方がいいということ自体は前から意識しており、車道の近い車を見たり次の信号に目を向けてみたりしたんですが、あんまり効果がなく。

今回は散歩中に視界に小さい長方形ぐらいのスペースを意識して、その長方形の中をなんとなく見る、というのをやっていました。

……久々に世界が3Dだった。

視界から入ってくる建物・植物・車の全てに、「この物体はあの物体より前にある、後ろにある」という情報がすごく目に入ってくる。

多分理屈としては、目のピントを合わせるために力が強く入りすぎていたのが、一点集中しなくても良くなったので細かい調整ができるようになった、くらいのものなんでしょうが、以前に「何も注視しないように目に力入れずに散歩してみよう」と試したときは何も効果なかったので、ちょうどいい塩梅のやり方ができてよかったです。

人生を通して、今の自分の精神状態はかつてなくハッキリしている(気遣いができるわけではない)んですが、自分の人生で幸福をちゃんと感じられていたのは間違いなくうすぼんやりしてた頃なので、もうちょっとだけうすぼんやり性を取り戻していきたいですね。

……体調戻った頃に完全にぼんやりマンが再誕したらどうしよう。健康になりながらアルジャーノンに花束をのラストみたくなるぞ。